昭和40年06月23日 朝の御理解
信心が段々進んでまいります。信心が段々分かってまいりますと、神様に喜んでいただくような願いを持つようになります。信心がまだ初歩の時代、分からない時代は、神様に喜んでいただくといったような事なんかは考えもいたしません。結局、自分の我情が、我欲が満たされる、自分の願いが聞き届けてさえもらえばよい。それを願う事をもって信心とする。いわゆる、悲しい時の神頼み、ね。
自分の難儀から、抜け出たい抜け出たいというそういう願いの信心から、おかげを頂いておる事のお礼の信心に段々変わってくる。そのお礼の信心が段々でけてくると、また、次には、お詫びの信心がでけてくるようになる。それは、いよいよ自分の心の状態というようなものが、分かってくる。自分の信心の状態というものが分かってくる。ですから、お詫びという事になるんですねえ。
皆さん、どこのところを、今、たどっておられるのだろうか。自分の信心をひとつ思うてみなきゃあいけません。お願い。( ? )、信心が段々分かってくるようになりますと、神様に喜んで頂くような願いがたてられる、ね。神様に喜んで頂けるような、間違いなしにこのことならば、こういう願いならば、神様喜んで下さるだろうと、こう思うような、ああ信心。
そういう願い、持たせて頂くならですね、自分の信心も、やはり信心自分の心根のこともです、神様に喜んで頂くような状態になっていかなければ駄目です。どんなに、なら今度の御造営のことなんかでも、御用、御造営のお役に立ちたい、御用に立ちたい、御用に立ちたいとこう願う。もうこれは間違いなしに神様が喜んで下さる願いでしょうねえ。ほんとに人一倍のおかげが頂きたい。
でも神様に喜んで頂くような、いうなら大きな御用が頂きたいと。そりゃもう確かに神様が喜んでくださる願いです、ねえ。確かにけれどもいかに神様が喜んで下さる願いだからというてです、ああ『お前はそんな高度な願いが出来る様になったからんなら、おかげもやるぞ』と仰るような神様ではないですね。そういう高度な事が願えれる様に成ったから、そういう高度な心の状態になる事を、神様は願われるのです。
そこんところが願いあいっちいいよると。私は願愛と言った様な事をですね、そのういろいろな意味で頂いて起きた事を、話しましてまいりましたけれども、今日はそこんところを、私は聞いて頂きたいと、ね。私共が神様に願うこと。そんなら今度は神様もまた、私共に願われること。段々おかげを頂いて、三年五年十年と信心を続けていきよるうちに、ねえ、そういうけなげな願いをもつ様になったということ。
そういう信心が段々進んできたということ。私は今さらのように、自分の信心を振り返ってみるのでございますけれども、終戦に丁度ここに、私共がこちらにおかげを、引き揚げて帰ってまいりましてその翌年、まあ親教会の四十年の記念祭であった。ああなるほど帰ってきて、いやあもうほとんど無一物状態のような中からおかげを受けていかなければならんのでございますから、私共が帰ってくるときに、家族四人のものが、千円ずつ許されて持って帰ったんですね、あの時代に。
そういう中にです、例えばんなら私がその御造営、その当時の記念祭がです、今から考えてみますと、ほんとに、嘘のようなんですけれども、丁度一年前にお話し合いがございました時に、祭典費が一万円でした、掲示をされましたのが。ところが、なかなかその、一万円ていう金の捻出がなかなかでけませんでした。私がおかげを頂こう、私がいくらおかげを頂こうという人はだあれもございませんでした。
私はもうあの時もそれこそもう雰囲気の中に、なにか非常にはがゆいものを感じたんです。まだいわゆる末席を汚しておる時代ですから、私共がその、その発言をしても通らんのですけれども、どうでしょうか皆さん、ね。これだけの委員がでけてこれだけの委員の方達がです、もう自分の持っておる一枚の着物を手放すことに腹を決めたら、一枚の着物を手放せばけっこうでけますよ。
あの時分は古着が非常に高かったんですもんね。私共は本当にわずかばかり持って来とる一応その着物を、でも外そうという気持ちだった。けれどもそりゃそうじゃろうばってんちゅうごたるふうでです、もう全然私のいう事にその、賛成して下さる方なかったです、ね。その時に私は思うたですね。いわゆる神様に願ったです。どうぞ神様この、一年後の記念祭にですね、誰も出し手がなかってもです。その御用を私にどうぞ一人におかげを頂かせて下さいという願いなんです。
今でこそ一万円といやぁ大した事ないのですけれども、その当時の一万円とは今言う様に、私共が引き揚げて帰って来るのに、一人一千円しか許されなかったという時代の一万円ですからね。この私は今日言うですね、いわばけなげな願いだったとこう思うですね、神様がそのけなげな願いに対してから、なら本当まあ喜んで下さっただろうとこう思います。喜んで下さったからというてならおかげは頂けなかったという事。
そのその事に全身全霊、ね。もう本当にそして私がその当時体験させて頂いた事はですね、もう本当に大変なごひれいの( ? )働きを見せて下さった事ですね一方には。やはりただ願うただけじゃあいけません、ね。ですから私はここで他になにも出来んのですから、商売よりかは出来んのですから、まあ資本のいらないのですから、資本のいらない商売を始めた。為にはまず一つ出張販売がいい。
だから製造元なら製造元に特約しておいて、そして自分が売ってくる。それをどんどん製品を送ってもらう。その当時この辺では、あの水石鹸とかあのう、もくろうですね。ろうなんかが、ここのこっからほとんでたんですねこの辺から。そりゃ石鹸とかロウソクとかと言った様な物のその、出張販売をずっと致しました。本当に神様のおかげであろうと思われるようにです、もうほんとにおかげを頂いたんです。
貯金を持ちませんですもん、私は。もう汽車ん乗って廻りますでも、もう神乍らですたい。佐賀なら佐賀で下りる。商いをする。したら、もう駅に来ると、もう次の長崎行きなら長崎行きが、もうちゃんと来ておるんですね。佐世保行きなら、佐世保行きがちゃんと来てあるんです。ですから、そこに行くと言った様にですな、置いた物を取るように順調なんです。商売も。
おかげで大変あるんですけれどもね、この調子で行きゃあ一万円ぐらいすぐ儲かると( ?よった)。ところがどっこいそうとばかりはいかなかったですね。製品が悪い為にその返品になって来たり、ね。送ってからお金集金に行っても、お金をくれなかったり。もうそれはそれは、あそこの十ヶ月あまりというものは、これだけ神様が働きなさっておる事を見せて下さりながらも、片一方では、ひとっつもほんとの、利益にはならなかったということです。
そういう時代にですね、愈々私は信心の悩みというものを感じだしたです。これだけ自分に神様が喜んで下さる願いをたてておるのに、神様どうしておかげを下さらんだろうか、と言う様なところをです、いわば椛目の方達はもう殆ど通っておる様に思います。そういう願いは皆がが持たれる。私はその事をですね、そんな事を今朝の御祈念に思わせてて頂きよりましたら、支那のこんな話があるんですよ。
ある支那の昔の天文学者なんです。天文学者があまりの熱心さ、熱心なあまりです、ね、毎夜毎夜その天体を眺めてはです、ね、支那のその街をこう歩いて回るげなです。とこうやはり星の出とる、でぐあいなんかを見て回るわけなんです。あまり熱心なあまり、例えば空を仰いで毎晩毎晩その、夜空を眺めて歩くわけなんです。研究しよるわけなんです。ところがです、足元に井戸があることが分からなかった。
井戸に落ち込んで死んだっちいう話。願いは高度なもの。天体を眺めるのやから。しかも一生懸命な勉強のあまりに、その上を見て下を見らなかったということです、ね。あたしどもの願いは成程、天体を眺めるような高度な願いかも知れません。ところがそれではです、ね、自分の足元、の所を見極めずしてです、おかげの頂けるはずありません。それこそ、滑って転んで怪我を致しましょう。もうそういう理由のあることも、もう沢山ですね、椛目では今。
昨日でした、福岡の秋永先生が見えられて、もうあの今本当にお役に立ちたい立ちたいという一念で一杯なんです。だからもう実にその殊勝なんです、見上げたものなんです、ね。ところが神様もですね、そのこと( ? )ござらんのです。例えて言うなら、今、あそこのあの学院ですからね。その6畳が開いてるわけです。それを貸させると、五万か七万かの家賃が取れるそうです。毎月。
だからそれをそのまま御造営の予費にあてたいと、ところが神様が、ああゆう借りにきても、ああいかんそこもいかんですから。それなら( ? )頂きますっち言うたら、まあそれもいかんち。それなら先生どうしてなら御用させて頂かないだろうかって( ? )一生懸命になられたんです。そして思いつかれたのが、高芝さんを通してから、あの、今真珠の商いをしておられます。わざわざご一緒に、しめに行かれました。たくさん仕入れて帰られた。
それをその売り出された頃がもうほんとに、神様のおかげちゃ有り難い。毎日一本ずつ売れん事ないっちて喜びなさった。( ? )その日から、ばったり売れんごとなった。それからまた何日か後でした。それこそ涙を流してからここにお詫びに出て見えた。「先生この神様は本当に厳しい神様ですね」ていうわけなん。どうかしんたですかって。「実は私がです、おかげの受けれらない元をつくっておりました」と。
「私自身ががめこんでおる」、ね、と言うてです、あちらから仕入れて見えられたその、黒真珠というのがあるんですね。大変高価な真珠なんです。黒い真珠です。それを一つぐらいはよかろうと思うて、自分の指輪にしてしまうとる。それが神様の御褒美と思うて仕入れてきたもんならです、私が自分でがめこむようなことをしておるからこういうことになった、お詫びに見えたら、もーそれから段々おかげを頂いた。
ちょうど私が、その40の、( ? )の時と同じ様なものを感じるです。ところが昨日、また出て見えられました。「先生一心が足りません。一心が足りません事をお詫びしてください」と言うて、こう涙を流して、お詫びされる。先日、真珠を見たいという人があったから、応接間でも見せる、二階でも見せると、言った様なふうにしてその、見せておられたんです。
そして愈々気が付かれた事がですね、高価な真珠のネックレスが三個紛失しておる。「私あそこに、そんとき見よんなさった人が、持っていきなさったとは思わんけれども、これは神様が私に対する大変な、お気付けだと思います。」とこう言われるねえ。本当に自分達の願いというものがね、大きければ大きいだけ、生々しておれば生々しておるだけです、神様も大きくおかげを下さろうとする、大きな働きが始まる事。
それが生々しておれば生々しておるほどです、ね、そうした働きも生々として来るということ、ね。それこそもうひとつひとつ、も自分の目にさわらんくらいな、その、その事に焦点をおかんで、する程度の人たちならですね、ならですね、スムーズに行くかもしれませんけども、本当に自分の生命と思うような、いわば、おかげを頂こうという人達の上にです、そう言う様なものが見えるんですね。
神様が喜んで下さる。絶対喜んで下さるに違いないと言う様な願いを立てた。その今( ? )申しますまでは( ? )いつも御用さしていただいとるです。「どうしてじゃろうかね。」って私。私は「どうしてじゃろうじゃなか、それは本物を分からせて、分かって貰いたいと思って、それはどうじゃろうかね。」って私は言うておるわけなんです。いかに神様がですね、そ、神様に喜んで頂く様な願いであっても。
その願い事を通して、その願いと同様のです、信心を高めて下さろうという願いが、神様の方から私共の方に、あるかということが分かるでしょうが。高度な願いを立てさせて頂ける様に、信心が進んだら、神様もまた私共に高度な心の状態、ほんとの信心の状態がです、進むことを願われる。私の話に戻りますとです、十ヶ月たったけれども、ひとぉつもお供え出来る様なものが生まれてこない。これだけ今思うなら、十ヶ月ただ働きをしたような状態である。
そこで私の信心上の悩みというのが、今そこんところに思いがいたったんです。天体ばかり眺めておった。自分の足元の方を眺めていなかったということなんです。ひとつ本気で( ? )時にです、成程私の心の上に、これではおかげが受けられまいというものを、分からせて頂いた、ね。そしたらもうそれこそ、今までどうにも出来なかった問題が、もうそれこそ嘘のように瞬時に解決のおかげを頂いた。
引っ掛っておったのが全部、例えば集金が入って来るとか、そのそりゃ見事なおかげだった。おかげで、( ? )貫かせて頂く事が出来た。そして私が今思う時、ははぁあの時にああいう信心は、ああゆう力は頂だいておったんだなということを思うのです。問題は神様の願いはそこなんですよ。その一万円のお供えがしたいのじゃないです。そん当時一生懸命に私がほんとに思うたその事をです。
神様が一生懸命受けて、受けて下さった。そんならそれだけの願いに匹敵するだけの信心を、高めさせて下さろう、分からせて下さろうとする働きがです、なら秋永先生なら秋永先生のことの上にも、感激が出来るでしょうが。なぜなら上ばっかり眺めず、やっぱ足元をしっかりながめないけませんよ、ね。高度な願いを持たせて頂くなら頂くほどです、なら神様は、そういう願いをかけるならです。
神様もまた、私共のその、あんたがたの高度な願いに対するところのです、信心を求めたもうのです。そこんところは、私はあの願いあいと言うのじゃないだろうかというふうに思うとる。して願いあいの成就なったあかつきにどういうふうなっとるかと言うとです、その分そのことの( ? )貫かれただけではなくて、貫かれた時にはです、それだけの力を私が受けておったという事実をです。
私の信心から皆さん、分かって下さらなきゃならないと思うんですよ。もう本当にそうなんです。それは確かにです神様に喜んで頂けれると、喜んで頂く為のですね、御用をさせて頂くという事。ならそういうならだけならば只喜んで私はそれではねえ、( ? )なると思うですね。神様に喜んで頂けれるだけの御用もできんなら、その御用に匹敵するだけの信心も、内容も進まなければ駄目だという事です、ね。
そういう所に皆さん、ひとつ本気で焦点を置かれて、どうしてじゃろうかという所の悩みをもっと大きくもたなければいけません。そして私が山にこもってでもその事を分かろうと務めた様なです、その皆さんに山にこもってという意味じゃないですけれど、ねえ、その位な真剣な、はあこれは神様が分かれて言いよんなさるとじゃと、というところをです、分からせて頂いた所からです、自分の願いもまた成就する。
成就したあかつきには、自分自身が力を受けておるというようなおかげを受けなければ、ほんとの神様の喜んでいただけるということではないと思うのです。皆さんがお供えをなさっただけで、神様が喜びになさるようなこの神様神様じゃないということ、ひとつ、そこんところのおかげを、まあこれは皆さんだけじゃありませんけれども、私を含めてその信心に取り組んでいかなければならないと思うのです。
おかげ頂かなければいけましぇん。